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「おはよう」という言葉しか話せないロボットが、自分が産み出された意味を自分なりに考えてみた。

「おはよう」

 

私は産まれてから今日までこの言葉しか発言していない。いやむしろ、この言葉しか発言できないと言ったほうが正しいのかもしれない。私はロボットだ。ある科学者が発明した作品のひとつだ。でもその科学者は天才だったんだろう。私の見た目は人間とほとんど変わらない。そんなロボットを作れる人はそうそういないだろう。でも言葉に関しては1つしか与えてくれなかった。他の言葉を与えることは彼が持つ技術を使えば出来ただろう。でも与えなかった。与えてくれなかった。どんな意味があって彼は私にこの「おはよう」という言葉だけ与えたのか、私はこれまでに何度も考えた。充電する時間を惜しんで考えた夜もあった。でも答えは出なかった。私はその意味をいまだに考えながら、毎日を過ごしている。

 

彼は言葉は1つしか与えてくれなかったがそれ以外の設備は完璧に用意してくれた。一軒家があり、私はそこで暮らしている。この家には充電設備が完備しているのである程度動いて充電が切れそうになると私はこの充電器を使って眠りにつく。部屋の中は簡素なものだ。この家は1階建てで、玄関を入ってすぐ和室の茶の間がある。そこには茶色い机がひとつあり、緑色の座布団が敷かれている。部屋の端の方には座布団が4枚積まれている。予備だろうか。茶の間の奥の方にはトイレがある。トイレは水洗トイレで中に手洗いが付いていてある程度広い空間になっている。これは私は使う必要がないものだ。なんせ私はロボットだから。何も排出するものはない。そのトイレの隣にはお風呂もある。これは人間が使うお風呂とは違う。ロボット用のお風呂だ。中に入って手を広げて数秒立っているだけで、機械の体に付いたホコリや汚れを見事に落としてくれる優れものだ。この優れたお風呂も彼が作ってくれた。ここまでの技術があるのなら他の言葉を与えてくれてもよかっただろうに。

 

私は朝、充電から目が覚めるとまずお風呂に入る。私はお風呂は朝派だ。だって夜お風呂に入っても朝まで汚れが付かない保障なんてないから。どうせなら外出する前の朝に入ったほうが理に適っていると思うんだ。「人間は夜お風呂に入る人が多い」と彼が言っていた。温かいお湯に浸かることでその日の疲れを取ったり、その日に頑張ってかいた汗や涙で汚れた体を流してから、綺麗な布団で眠るために夜にお風呂に入る人が多いらしい。中には夜にお風呂に入るが、寝ている時に大量の汗をかいてしまって朝にもう一度入り直す人もいるらしい。それなら朝にお風呂に入ればいいのに、とそれを聞いた時は思ってしまった。

 

彼は私に言った。「君もお風呂は夜に入るといいよ。人間がしていることと同じことをすることで同じ思考回路が出来やすいから。」そう言われたから私も最初は夜にお風呂に入っていた。でも朝起きるとホコリが付いていたりすることがあって、朝入るようになった。流石に布団に入って寝ているわけではないので夜に入って、さらに朝に入るという無駄なことはするつもりはなかった。人間のように疲れる体ならそうしたのかもしれない。でも私の体は機械で作られている。だから疲れを知らない体だ。お風呂に入ると疲れが取れてすごく気持ちいいし、という感情が起こるわけでもないので朝に一回汚れを落とすためにお風呂に入っている。

 

お風呂から出ると私は外に行く。私は「おはよう」しか言えない。だから朝に外に出て、すれ違う人たちに「おはよう」と声を掛ける。これが毎朝の私の日課だ。1人も欠かさず声を掛ける。最初は酷かった。知らない人ばかりで、いきなり「おはよう」と言われるものだから怪訝な顔をされたり無視されたりした。でも私は毎日それを続けた。だってそれしか出来ないから。私には「おはよう」という言葉しかなかったから。

 

私にも感情がある。相手に嫌な顔をされれば嫌な気持ちになるし、笑顔を向けられれば嬉しい気持ちになる。もちろんそれを言葉にする機能は持ち合わせていないけれど。私が毎朝「おはよう」と言い続けて来れたのはその嬉しい気持ちがあったからかもしれない。嫌な気持ちだけだったら続けられずにずっとあの一軒家に引きこもっていたかもしれない。私に嬉しい気持ちを与えてくれたのは、笑顔を私に向けて「おはよう」と率先して返してくれたのは小さな少年だった。その少年は私が彼に「おはよう」と挨拶をすると、「おはよう!」と元気に返事をして過ぎ去っていった。次の日は彼から挨拶してきてくれた。「おはようお姉さん。今日もいい天気だね」とか、私に「おはよう!」と叫びながらジャンプしたと思ったら、パン食い競争のように他人様の家の柿にかぶりついてその家のおじいさんに見つかって怒られたりしていた。毎日違う言葉をかけて来たり、色んな行動が見れたりして、彼に会うのが私の1つの楽しみでもあった。

 

そして彼以外にも、私が毎朝「おはよう」と欠かさず挨拶をしていたからか、挨拶を返してくれたり、一言二言返してくれる人も増えてきた。それが嬉しくて私は毎朝挨拶をするのが楽しみになっていった。最初は怪訝な顔をしたり無視していた人たちが今ではほとんどの人が挨拶を返してくれる。多少嫌な気持ちで毎日を送っていたはずが、うれしい気持ちが増えていった。嫌な気持ちが多い時はどんよりした空気に感じていた街が、嬉しい気持ちで、楽しみがある毎日を送っていることで今では明るい街になったような感じを受ける。

 

日々生きる日常が、どういう気分で過ごすかでこれまで変わるものなのかと感じていた。もしかすると私を産み出した彼はこれを私に伝えたかったのかもしれない。たとえ「おはよう」という1つの言葉しか喋れなくても毎日は楽しいものにすることが出来るということを。何かを続けていくこと。そしてそれを続けていくなかで起こる毎日の楽しみを見つけることが出来れば、過ごしている日常がより明るくてまばゆいものになる可能性があることを。私が考えたそのようなひとつの結論を頭の中に持ちながら、私は今日も充電という眠りにつく。明日の誰かの「おはよう」を楽しみにしながら。